東京地方裁判所 平成元年(行ウ)165号 判決 1993年12月17日
原告
吉野武
被告
渋谷労働基準監督署長熊谷正彦
右指定代理人
佐々木武男
同
志村勉
同
佐藤親弘
同
嶋崎輝男
同
千葉久乃
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告が昭和六一年二月一四日付けで原告に対してした労働者災害補償保険法による休業補償給付等を支給しない旨の処分を取り消す。
第二事案の概要
本件は、被告が、原告の業務上の疾病が治ゆしたことを理由に、治ゆ後の期間に係る休業補償給付等を支給しない旨の処分をしたところ、原告が、治ゆと認定された時点では原告の疾病は治ゆしていなかったとして、右処分の取消を求めた事案である。
一 基礎となる事実(次の事実は、当事者間に争いがないか、末尾掲記の証拠(略)によって認められる。)
1 原告は、昭和五七年一一月二九日株式会社グリーンキャブ弦巻営業所に雇用され、タクシー乗務員として勤務していたところ、昭和五八年一二月二六日午前五時五六分頃、客を乗せるために事業用普通自動車を車道左側に停車させ、右手でドアーレバーを操作し、左後部ドアを開けたまま、頸部を左に捻じった姿勢で乗客が乗り込むのを待っていたところ、普通貨物自動車に自車後部を無制動で追突され(以下「本件事故」という。)、頚部がむち打ち状態になるとともに、右腕が強く前方に引っ張られて、業務上負傷した。
2 原告は、受傷後、財団法人平和協会駒沢病院(以下「駒沢病院」という。)で受診し、頚椎捻挫、右腕神経叢損傷との診断を受け(以下「本件疾病」という。)、昭和五八年一二月二六日、翌二七日の二日間を通院、同月二八日から昭和五九年三月二八日まで入院、同月二九日から昭和六一年五月一七日まで通院し、同年七月一日野村医院に転院して平成元年八月二二日まで通院した(<証拠略>)。
3 原告は、本件疾病について、追突車両に係る自動車損害賠償責任保険及び自動車保険から治療費及び休業損害等の支払を受けていたが、保険会社から昭和五九年一一月一五日をもって症状固定したとして、右支払を打ち切られた(<証拠略>)。
4 原告は、昭和六〇年五月一三日、被告に対し、昭和五八年一二月二七日から昭和五九年一一月一五日までの休業特別支給金支給申請及び同月一六日から昭和六〇年四月一三日までの休業補償給付請求・休業特別支給金支給申請をした。
5 被告は、原告に対し、昭和五八年一二月二七日から昭和五九年一一月一五日までに係る休業特別支給金を支給したが、同月一六日から昭和六〇年四月一三日までの休業補償給付等については、原告の本件疾病は昭和五九年一一月一五日症状固定したとして、昭和六一年二月一四日付けで休業補償給付等を支給しない旨の処分(以下、「本件処分」という。)をした。
6 原告は、本件処分を不服として、昭和六一年四月一一日、東京労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが、同審査官は、同年一〇月一七日付けで原告の審査請求を棄却する旨の決定を行った。更に、原告は、同年一二月一八日、労働保険審査会に対し、再審査請求を行ったが、同審査会は、平成元年五月二二日付けで、再審査請求を棄却する旨の裁決をし、同裁決は同年六月二日原告に送達された。
二 争点
原告の本件疾病が昭和五九年一一月一五日の時点で労働者災害補償保険法上の治ゆの状態にあったか否かである。
三 当事者の主張
1 原告の主張
(一) 症状経過
(1) 原告は、本件事故発生直後特に異常がなかったが、数時間後に悪寒と右腕の脱力感が生じ、駒沢病院で受診した。レントゲン検査の結果は異常がなく、応急手当てを受けて帰宅した。翌日、右肩を中心に右半身の痛み、右腕のしびれ、右眼痛、右耳閉塞感、耳鳴り等が現れ、本件事故の二日後同病院に入院した。入院後、原告は、日毎に病状が悪化し、ベッドで安静に保つこと自体が苦痛であり、咀嚼も困難であった。治療内容としては、静脈注射を入院当日から毎日続けたが、血管に炎症が生じて中止となり、その後は内服薬と外用薬が増量しただけであった。入院後一か月位の時点で理学療法が開始されたが、頚椎牽引及び右肩部温湿布は痛みが著しく、鍼は不適であるために、いずれも中止され、マッサージ及びマイクロウエーブ照射も、通常の力と温度では症状がかえって増悪する状態であった。
(2) 退院後、原告は、神経ブロック注射を受けたが、ほとんど効果がなかった。痛みの程度は、治療により当初から僅かに和らいだものの、時間的経過に応じて症状が軽快したわけではなく、日常の生活動作等で症状が敏感に反応する不安定な状態であった。原告は、昭和五九年一〇月二六日突然駒沢病院の窓口で治療費の現金払を要求され、やむなく通院を一時中断した。
(3) 原告は、治ゆ認定時である昭和五九年一一月一五日以降も駒沢病院での治療を継続し、痛止めの内服薬を主体にし、理学療法を継続し、その症状は全般的には快方に向かいつつあったところ、昭和六一年四月一七日、駒沢病院米谷俊朗医師(以下「米谷医師」という。)から今後原告の症状に関する証明は出来ないと通告されたため、野村医院に転院し、野村直弘医師(以下「野村医師」という。)の治療を受けた。野村医院における治療は、駒沢病院における治療とほぼ同様であったが、症状が軽快しないので、ギブス・コルセット療法を試みたところ、昭和五九年一一月一五日の治ゆ認定時と比較すると、主として神経症状に効果がみられたが、運動痛、圧迫痛にはそれほどの効果がなかった。
(4) 現在の症状は、自覚症状として右側の側頭部、後頭部、顎部、頚部、肩部、腕部の各所に常時圧迫痛、耳の閉塞感、耳鳴り、右眼痛等で、日常生活上の動作で各症状が増悪する、他覚症状として右肩部の変形、頚椎、右肩から右指先までの各関節部に運動制限、発汗異常というものであり、事故当初から現在まで一貫して、仰向けに寝られない、椅子の背に寄り掛かって座れない、着衣の制限等の日常生活上の支障がある。
(二) 原告は、治ゆ認定時である昭和五九年一一月一五日の時点以降も駒沢病院で治療を継続していた。駒沢病院米谷医師は、自賠責保険会社に対して同月一五日の時点で治ゆした旨の同年一二月一日付け診断書を作成しているが、その一方で、同医師は、通院加療中であるが、向後約二か月間の通院加療を要する見込みである旨の同月二〇日付け診断書を作成している。被告は、全く矛盾している同医師作成の右二通の診断書のうち、一方的に同月一日付け診断書のみを採用して、本件処分を行った。
また、本件処分の根拠とされた医師の鑑定書及び意見書は、改竄された米谷医師のカルテを基に鑑定を行ったものであり、原告の実際の症状に基づいた鑑定とは認められない。
(三) 昭和六一年四月一七日以降原告が受診していた野村医院野村医師は、昭和六三年二月四日付け診断書において、「現在加療中であるが、当初からの経過により症状固定と判断する根拠は認められない」と診断している。
(四) 以上によれば、本件疾病は、昭和五九年一一月一五日の時点で未だ治ゆしていなかったから、本件疾病が右時点で治ゆしたことを理由とする本件処分は違法である。
2 被告の主張
(一) 労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)上の治ゆとは、発症当初の急性症状が消退し、症状が安定して医療効果が期待できないと判断される慢性的症状に移行した状態(症状固定)を指すものであり、これらの結果として残された機能的、器質的障害、神経症状などは後遺障害として障害補償の対象となることはあっても、もはや療養補償の対象となるものではないところ、原告の昭和五九年一一月一五日時点での症状は、しびれ、肩こり、右肩から右腕にかけての痛み、右手のしびれというものであり、急性症状は消退し、慢性症状が持続しているものの安定傾向にあり、治療内容も対症療法のみであって、医療効果がそれ以上に期待し得ない状態にあった。
(二) 米谷医師作成の昭和五九年一二月二〇日付け診断書は、同医師において原告から依頼された趣旨を若干誤解して作成した疑いがあるうえ、内容的にも従前の診断書と同様の記載が繰り返されている比較的簡単なものであり、さらに、対症療法を施すという意味ではなお治療の可能性があったことを考え合わせれば、症状固定の判断の妨げになる書面ではない。
(三) 治ゆ認定後の駒沢病院における療養経過は、慢性症状は持続していたものの、その治療内容は、治療効果を期待するというものではなく、痛みを軽減するための対症療法であり、野村医師による長期間にわたる治療についてみても、原告に係る診療録上、原告の症状が治療中漸次軽減したとは認められないから、その実際上の効果は認められず、定型的な対症療法の範囲にとどまるものであった。野村医師の治療中、コルセット装着時には症状の改善が少しは見られたものの、これもまた対症療法としての効果しか認められないものである。
(四) 以上によれば、原告の症状は、昭和五九年一一月一五日の時点で症状固定の状態にあったから、本件処分は正当である。
第三争点に対する判断
一 本件事故後から治ゆ認定までの原告の症状及び治療経過(<証拠略>)
1 原告は、昭和五八年一二月二六日の本件事故当日、駒沢病院で受診し、頚部捻挫、右腕神経叢損傷との診断を受けた。その際の所見は、顔面半分に熱感があり、側肩部、右薬指・小指部に知覚鈍麻等であった。翌二七日も同病院で受診し、右眼痛、耳鳴りがする、頭痛、手指しびれ感と痛み、握力右二一、左四一キログラム、尺骨神経領域(頸髄節第七、第八領域)の知覚鈍麻というものであり、入院加療の要ありとの診断を受けた。
2 原告は、昭和五八年一二月二八日駒沢病院に入院し、その際の症状は、尺骨神経領域の知覚鈍麻、眼精疲労、上腕二頭筋力多少減少、前斜角筋に圧痛、肘尺骨神経領域の圧痛であった。原告は、ポリネック固定の指示を受け、ベッド安静を保ち、右背部ゼラップ湿布、温熱療法、投薬治療を受けた。入院中の経過は、原告は、頭部、頚部、右上肢にかけての疼痛と右眼の疼痛、仰臥位に寝られないことの苦痛を頻繁に訴え、昭和五九年一月九日握力右三〇、左四四キログラム、同月二四日前斜角筋に圧痛、頭痛、左前腕のだるさ、同年一月下旬頃からリハビリを開始、同月二六日頚椎牽引したが、症状が増悪するため中止、同年三月八日仰臥位に寝られない、肩甲骨に痛み、というものであった。なお、同年二月一〇日に撮影したエックス線写真上では、第六頸椎椎体がやや偏平化しているが、頚椎の前後屈に際して頚椎の動きに不安定性はみられないとの所見であった。
3 原告は、昭和五九年三月二八日退院し、退院後は、投薬(ビタミン剤、鎮痛剤)、理学療法を中心とする治療を受け、昭和五九年七月一二日までの間は、痛みが強いときには頻繁に肩甲部神経ブロック注射が施されたが(四月一回、五月三回、六月三回、七月二回)、その後の八月及び九月には一度もなく、同年一〇月一一日に一度のみ施された。
4 通院療養中の原告の症状経過を診療録からみると、昭和五九年三月三一日眼精疲労、右腕(脇下)部に不快感、右前斜角筋に圧痛、同年四月二日頚部に痛み、同月五日左肩甲内側に圧痛、同月一二日朝起床時に左尺骨神経領域にしびれ、右前斜角筋に圧痛、右頚部に痛み、首を左に傾斜すると痛み、同月二六日右臀部、首、肩甲部に痛み、背部の愁訴が強くなる、同年五月一七日訴えは続いている、同年六月七日訴えが軽減する、という経過を辿り、同年七月一九日には、原告の症状はやや軽減した。その頃、米谷医師は、被告の勤務していたタクシー会社の所長と面談し、同所長に対し、経過は順調であり、一、二か月で仕事へ復帰する方向であるとの見通しを述べた。その後の経過は、同月二六日著変なし、尺骨神経領域にしびれ、八月二日病状は安定するが、横になっている時間が長いと症状が増悪する、同年九月一三日肩甲部の痛み、痛みはコントロールできる、右前斜角筋に圧痛、頭部の動きは順調、頭部左半分に痛み、同年九月二二日症状が増悪、肩甲骨の裏に痛み、同年一〇月四日肩甲部に痛み、肩甲部外縁に圧痛、右腕の痛みとしびれは軽度、同月一一日肩関節、肩甲部圧痛、同月一八日先週より病状安定、というものであった。
5 原告は、昭和五九年一〇月二五日保険会社が治療費の支払をしないために現金での支払を求められたため、同月二三日来院受診以後同年一一月一四日まで受診せず、同月一五日においては、右肩部を中心とする疼痛、右前腕、手指尺骨神経領域のしびれ感という愁訴性症状と耳鳴りが認められた。米谷医師は、昭和五九年夏頃から、原告の症状が一進一退ながらほぼ安定してきていたので、原告の症状固定を意識するようになり、その後の推移をもみて、同月一五日の診断時に症状固定と診断し、原告に対し、症状固定、治療効果、後遺障害の請求等についての説明をした。これに対し、原告は、治療をしていないとなお症状が強く、日常生活にも困るということで、右同日以降も通院を続けた。右同日、米谷医師は、原告の当初からの症状である耳鳴りについて、原告に対してハゼヤマ耳鼻咽喉科医院を紹介し、原告は、同医院で治療を受けた。
6 原告は、本件疾病について、追突車両に係る自動車損害賠償責任保険及び自動車保険から治療費及び休業損害等の損害賠償を(ママ)支払を受けていたが、米谷医師は、保険会社に対し、昭和五九年一一月一五日症状固定、後遺症ありとの内容の昭和五九年一二月一二日付け診断書を作成した。その一方で、同医師は、原告から会社に診断書を提出したいとの要望を受けて、原告が会社を休業するためには診断書が必要であろうとの判断から(実際には労災申請のために会社に提出するものであった。)、「病名頚椎捻挫、右腕神経叢損傷、頭書の疾患にて昭和五八年一二月二六日初診現在通院加療中であるが、向後約二か月間の通院加療を要する見込みである。」との内容の昭和五九年一二月二〇日付け診断書を作成して、原告に交付した。また、同医師は、昭和六〇年四月一六日、駒沢病院事務担当者から休業特別支給金支給申請に必要であるとの説明を受け、労災による休業補償給付とは別枠のものであると誤解して、昭和五八年一二月一七日から昭和五九年一一月一五日までの休業特別支給金支給申請書、同月一六日から昭和六〇年四月一三日までの休業補償給付請求書・休業特別支給金支給申請書(兼用の書面)に診療担当者として療養継続中の証明をし、これを原告に交付した。
二 治ゆ認定時以後の治療経過と症状
1 駒沢病院における治療経過と症状(<証拠・人証略>)
(一) 原告は、治ゆ認定時以降も昭和六一年五月一七日まで駒沢病院に通院し、投薬(メチコバール、セパA、ビタメジン、メンテバンクリーム等)及び理学療法を中心とする治療を継続した。
(二) 原告の症状の経過を診療録からみると、昭和五九年一一月二九日右手にしびれがある、右頸部から肩にかけての痛み、昭和六〇年四月二七日症状はやや安定、同年五月九日昨年の一一月に比して症状は良くなってきているが、自覚症状として耳鳴り、右肩甲骨部痛、右上肢の疼痛としびれ、右眼痛、頭痛があり、他覚症状として右鎖骨三角筋に圧痛、同月二五日薬を服用していると症状が良い、同年六月二二日症状に変化なし、同月二九日病状安定、同年七月一三日右手にびりびり感、最近症状が少々強い、同月二七日しびれが少し良い、眼精疲労、のどに痛み、同年八月一七日症状安定、同年九月七日訴えは相変わらず、しびれは右五指のみとなる、右肩甲部の圧迫がつらい、右前腕尺側知覚鈍麻、右側肩及び前斜角筋に圧痛、同月二一日症状安定、症状に波があると訴える、同年一〇月三日症状が増悪、手のしびれを訴える、同月一九日症状は相変わらずである、右腕窩部に痛みと不快感、左腕にしびれと痛み、右肩甲部に痛み、仰向けでは寝られないと訴える、同年一一月一四日右頸から右腕及び右肩甲部に痛み、耳鳴りは良くなってきたが痛みが強い、同年一二月一四日リハビリしないと症状が増悪する、耳鳴り、眼精疲労、側肩、右第二頚椎部に圧痛、昭和六一年四月五日症状安定している、というものであった。したがって、原告の症状は、一時的には軽減するものの、その後に再び増悪するという一進一退の状況にあり、その間の症状に大きな変化はなかった。
2 野村医院における治療経過と症状(<証拠・人証略>)
(一) 原告は、昭和六一年七月一日、野村医院に転医(ママ)し、野村医師から頚腕症候群の診断名の下で治療を受けた。その初診時の所見によれば、知覚障害として、両方の尺側領域に多少触覚鈍麻、痛覚鈍麻、頚部屈曲硬く圧痛あり、頚部の筋緊張性・圧痛性、側屈旋回多少不十分の傾向、右小指球、母指球やや萎縮性であり、エックス線写真上、頚椎第五―六、六―七間に捻じれ、第五頚椎椎弓部に骨折と思われる像を呈す(陳旧性)、頚椎前弯は減少し、第六椎体は楔状、偏平化し、硬化像を伴うこと等が認められた(この頚椎の変形等が本件疾病と関連するものであることを認めるに足りる証拠はない。)。
(二) 診療録上、治療内容としては、神経ブロック(後頭神経ブロック、肩甲上神経ブロック)、投薬(抗うつ剤、鎮痛剤、精神分裂用剤)を使用し、物理療法(ジィアテルミー)、ギブス固定、コルセット装着等の治療を受けた。通院当初においては、神経ブロック(昭和六一年八月一日から同年一〇月二五日までの間)が行われたが、かえって痛みが増悪し、その医療効果はまったく認められなかった。
(三) 原告は、症状が軽快しないので、昭和六二年二月九日から駒沢病院で施されなかったギブス固定を受け、同年三月三一日からギブスコルセットを装着し、その間の原告の症状は、ギブスコルセット装着時には症状の軽減がみられたが、同年六月二二日「ギブスコルセットヲ切割シテ皿ニシテカラ苦訴ハ以前ニ復シタ」、同年七月六日頚筋激しく圧痛、僧帽筋及び棘下筋に圧痛点、第三及び第四頚椎に激しく圧痛、同月二八日耳鳴り持続、頭痛全体に訴える、頚部屈曲、過伸展著しく硬い、側頚部圧痛、というものであった。
(四) 原告は、昭和六二年八月四日コルセットが完成し、その後一年間くらいコルセットを装用していた。その後の原告の症状の経過を診療録からみると、全期間を通じて、「苦訴増ス」、「苦訴ガ未ダ持続シテイル」、「苦訴動揺スル」、「痛ミ未ダ持続シテイル」との記載が頻繁に繰り返されている。因みに、原告が野村医院に通院しなくなる前一年間の原告の症状の経過は、昭和六三年八月二日コルセット装用により苦訴は減少するが、コルセットを外すと眼痛、耳鳴り、右腕に放散痛、第二頚椎に圧痛あり、同年九月一九日痛み未だ停止して持続する、右顔半分に痛み、同年一一月二五日苦訴増える、眼痛及び耳鳴りを訴える、僧帽筋及び棘下筋に圧痛点、側頚部及び頚筋右に圧痛、第三、第四頚椎に圧痛あり、同年一二月二六日、右頭部から右腕にかけて放散痛、頚椎運動あらゆる方向に制限される、第二、第三、第四頚椎に圧痛、頚筋下部に圧痛あり、平成元年二月二〇日苦訴増大、肩から右腕にかけて疼痛、手で触れるとずきんと痛む、同年三月九日苦訴未だ持続する、同年五月一五日「苦訴現在軽度」というものであった。したがって、原告の当初の愁訴性症状は、野村医院における治療によっても、著明な改善はみられず、これが継続していた(<証拠略>は、ギブスコルセット装着治療に効果が認められ、その後の薬物投与、温熱療法により漸次苦痛が軽減したと証言し、原告本人も同様の供述をするが、野村医院における原告に係る診療録によれば、原告の症状が右証言のような経過を辿ったことを認めることは困難である。)
3 原告の現在における症状(原告本人、弁論の全趣旨)
右側の側頭部、後頭部、顎部、頚部、肩部、腕部に圧迫痛、右肩運動時痛等の頑固な神経症状、右肩から右指先までの各関節部に運動制限があり、当初からの耳の閉塞感、耳鳴りの症状は、現在においても残存している。原告は、事故当初から現在まで一貫して、仰向けに寝られない、椅子の背に寄り掛かって座れない、着衣の制限等の日常生活上の支障があり、現在においても、右諸症状のため、本件事故前に従事していたタクシー運転の業務に復帰できないでいる。
三 医学的意見について
1 原告が受傷直後から受診していた駒沢病院米谷医師は、昭和五九年一二月一二日付け診断書において、昭和五九年九月一日から保存治療継続、同年一一月一五日しびれ感軽度、右肩こり、症状固定と認める、後遺症あり、と診断した。また、同医師は、昭和六〇年一一月二一日付け意見書において、「保険会社の支払能力の問題等があり、症状もほぼ固定してきていたので、昭和五九年一一月一五日に症状固定(後遺症あり)としたが、その後投薬治療をしていないと症状が強く、日常生活に困るとのことで来院する。対症療法ではあるが、加療により症状は一進一退とはいえ軽快し、本人の日常生活の上でも楽になるため、通院加療することになる。」との意見を述べている(<証拠略>)。
なお、米谷医師は、今後約二か月間の通院加療を要する見込みである旨の昭和五九年一二月二〇日付け診断書を作成したうえ、治療担当者として、同年一一月一六日から昭和六〇年四月一三日までの休業補償給付請求書・休業特別支給金支給申請書に療養継続中の証明をしているが、同医師の右行為が極めて軽率であることは否めないとしても、同医師の証言内容に照らせば、同診断書及び証明は、同医師が、労災保険法上、原告の症状が症状固定にはあたらず、なおその療養を要するとの判断に基づいて作成したものであるとは認められない。
2 東京労働基準監督局医員三原鏡医師は、鑑定書において、昭和六〇年一一月二一日付けの主治医の意見書において、今後対症療法のみとしていることから、症状固定とみなされるとの意見を述べている(<証拠略>)。
3 東京労働者災害補償審査官が鑑定依頼した東京労働基準監督局医員野崎寛三医師は、昭和六〇年一二月一三日付け鑑定意見書において、昭和五九年七月頃には症状減退、九月頃から残存症状の安定傾向を認め、原告の昭和五九年一一月一五日時点の現症は、右肩部を中心とする疼痛、右前腕、手指部尺骨神経領域のしびれ感という愁訴のみであり、かつ薬治、対症療法にとどまっていることから、経過として症状固定に該当する、との鑑定意見を述べている(<証拠略>)。
4 東京労働基準局地方医員坂本元彦医師は、その平成四年一〇月五日付け意見書において、主治医米谷医師の治療経過・内容、原告の症状の推移について、昭和五九年七月一九日の時点で経過良好であり、かつ今後一、二カ月後には通常業務に復帰予定と診断されていること、同年八月頃からの主症状は右肩甲骨周囲の疼痛及び右上肢抹(ママ)梢神経痛であり、症状そのものは安定しており、かつ増悪傾向はみられないこと、治療内容も初期には入院安静としており、その後も理学療法、投薬、精神的指導、社会復帰への指導等十分なるものであり、その他変化はなく一定しており、十分な加療内容といえ、後期には対症療法のみと判断されること、同年一〇月二三日より症状固定日とした同年一一月一五日までの三週間通院加療が認められないこと等から、右同日で症状固定とした主治医の判断は労災上妥当である、との意見を述べている(<証拠略>)。
また、同医師は、平成五年四月七日付け意見書において、野村医師の治療について、<1>神経ブロックの効果は全く認められず、投薬としても症状著明であれば必ず使用され得る鎮痛剤、鎮けい剤、ビタミンB1、B6、B12製剤を初期に全く使用せず、初診より一年後になって初めて鎮痛剤及びビタミンB12を七日間のみ投与していること、<2>物理療法のジィアテルミーによる症状改善も全く見られないこと、<3>コルセット装着時、症状の改善は少しは見られるものの、これは対症療法としての効果しか認められないこと、<4>反復治療の効果判定としては、三カ月、長くて六カ月で判断すべきであることなどから、野村医院における長期間(昭和六一年七月一日より平成二年一月八日まで)にわたる治療に、医療効果はなかったと判断される、との意見を述べている(<証拠略>)。
5 右各医師の鑑定書及び意見書に対し、原告は、改竄された米谷医師の診療録を基に鑑定し、また意見を述べているものであり、原告の実際の症状に基づいた意見とは認められないと主張するが、同医師には診療録を改竄する理由はなく、同診療録は十分に信用するに足るものと認められるから、原告の右主張は理由がない。
四 労災保険法上の「治ゆ」とは、本件事故以前の状態に服したことを意味する「完治」を指すものではなく、発症当初の急性症状が消退し、慢性症状は持続していても、症状が安定し、療養を継続してもその医療効果が期待できないと判断されるに至ったときである「症状固定」を指すものと解するのが相当である。
これを本件についてみると、前記一ないし三を総合すれば、昭和五九年八月以降の治ゆ認定時までの原告の症状は、本件事故からの時間的経過に照らせば、当初の急性症状が消退したものとみて差し支えがなく、その主な症状は右肩甲骨周囲の疼痛及び右上肢抹(ママ)梢神経痛というものであって、比較的安定をみており、かつ増悪傾向はみられず、その間の治療方法、内容もほぼ定形化された対症療法にとどまること、米谷医師は、昭和五九年夏頃から、原告の症状が一進一退ながらほぼ安定してきていたので、原告の症状固定を意識するようになり、その後の推移をもみて、昭和五九年一一月一五日の診断時に症状固定と診断したこと、治ゆ認定時以降の駒沢病院における治療も、治ゆ認定前と差異のない対症療法であって、治ゆ認定時の愁訴性症状にみるべき変化がなく、その治療効果があったとみることができないこと、その後の野村医院における治療も、ギブス固定及びギブスコルセット装着時に原告の症状が軽減したことは認められるが、これは対症療法としての効果しか認められず、他の治療も、駒沢病院における治療に比してより有効なものがあったとは認め難いこと等からすれば、昭和五九年一一月一五日の時点には、原告の症状は慢性化し、療養を継続してもその医療効果を期待できない症状固定の状態にあったものと認めるのが相当である。
野村医師作成の昭和六三年二月四日付け診断書(<証拠略>)は、原告の症状が昭和五九年一一月一五日の時点で症状固定したとは認められないとしているが、(人証略)によれば、いかなる治療を施したとしてもこれ以上改善しない状態が治ゆであるとの見地に基づいて右診断書を作成していることが窺われるのであり、労災保険法上の治ゆの解釈と異なる見地に立つものであるから、これをもって前記判断を左右することはできない。また、同証人は、労災保険法上の治ゆの見地に立ったとしても、右同日の時点で症状固定したとは認められないとの見解を述べているが、右見解の根拠とするところは、同証人自身も認めるように推測の域にとどまるものであって、その判断の根拠が不十分であるから採用することができない。
なお、原告の症状は、現時点では、当初からの愁訴性症状である頭痛、右上肢の疼痛等の症状が軽減ないし消退したことが窺われるが(原告本人)、治ゆ認定後の治療内容及び期間、原告に係る診療録上の原告の症状経過及び本件事故からの時間的経過に照らせば、右症状の軽減ないし消退は、治ゆ認定後の治療の効果によるというよりも、自然的な時間的経過によるものとみる余地が多分にあり、また、仮に、野村病院における治療の効果によるものであったとしても、右症状は原告の当初からの症状のうちの愁訴性症状の一部にすぎず、その長期にわたる治療期間に比して、原告の症状に著明な改善があったということはできないから、右事実は前記判断を左右するものではない。
そうすると、原告の本件疾病が昭和五九年一一月一五日に症状固定したものと認めて、同月一六日から昭和六〇年四月一三日までの休業補償給付等を支給しないものとした本件処分は、正当な処分であり、適法なものである。
五 以上によれば、原告の本件請求は理由がないから、主文のとおり判決する。
(裁判官 坂本宗一)